建築を志す前に読む本/第2章No.19



NO.19  ――出会うこととは?――


人生、出会いの連続だ。建築の仕事もまた出会いによって仕事が生まれ、 さまざまな出来事がふつふつと沸き上がってくる。モノづくりの仕事は発注者がいて成り立っていく。注文が無ければモノはつくられていかない。クライアント が仕事を依頼し、設計者はそれに応えていく。仕事は人と人との出会いの産物。モノの誕生はここから始まる。その方はどんな方なのか、どんな趣味なのか、ど んな家族を持っているのか、どんな夢を持っているか等など。
 様々な不安と期待が入り混じりながらクライアントと出会っていく。設 計を始めた若い頃、私は本当にさまざまな人生の師になるような方々をクライアントとして出会ってきた。これは私の生涯の財産である。どれだけ元気を貰った ことか。――なぜ、今、この方と出会ったのか?――。自分がこの方に出来ることは何か?人と出会うことは一体どういうことなのか。新たな仕事の依頼等で紹 介されたり、出会ったときにいつもそう考えさせられた。
出会いに応えること。応えるとはレスポンス。レスポンシビリティ、これは応えること、名詞である。この名詞を英和辞書で調べると責任と いう言葉が出てくる。つまり、出会いに応えるということはその出会いに責任を持つということなのか。モノづくりは最初にモノはない。つまり、見えないもの にお互い信頼しあってクライアントはお金を、設計者はアイデアを、建設会社は材料と現場力を出し合ってモノを造りだしていくのである。 





建築を志す前に読む本/第2章No.18



NO.18   ――人生最大の財産は人生の師と呼べる人を持つこと――


 人生が変わる。こういうことって本当にあるのだと思う。出会いによって人は人となる。私は藤本先生と出会って、ある種の自信ができたのか大きく変わった。自分が今まで思い悩んできたことの小ささを感じさせてくれたり、生きることの意味を根底から覆されたり、ほんの短い時間でも先生から伝わってくる説得力と言葉力で、閉ざしがちな自分の心が少しづつ外向きに開いていくように感じていた。閉ざされた心から開かれた心へ。このことが建築を志していく上で、何事も受け入れていこうとする気持ちの幅が出来、大きな精神的な拠り所になっていくことになる。
 人は必ず人生の師と呼べる人と出会うものだ。必ずと言ってもいい。ただ出会って求めていくか、求めていかないかの違いはある。私も誰かの人生の師と呼ばれる自分になれればと思うし、また、人の人生に何か手助けになるような自分になれたらと最近とみに思う。人との出会いを通じてそう感じさせてくれたのが藤本先生だった。
人生の中で真の財産とは、人生の師と呼べる人を持つことではないだろうか。人は古い自分から脱皮し、常に新しい自分に変わっていかなければいけない。人は成長し、日々充実した人生を生きる。これがこの世に生まれてきた所以ではないかと思う。人と出会うことでしか人は変わっていけないのではないかとさえ思っている。それほど出会いは大きな意味を持つ。どんな人と自分は出会っていくのか、来たのか、これで自分がつくられ、自分の人生がカタチづくられ、他人の人生もカタチづくっていくと言っても過言ではない。なぜならば、出会いは偶然でなく、必然として人と出会っていくからである。どんな出会いにも意味がある。そして出会って別れて、これを繰り返していく。
出会うということは一体どういうことなのだろう。

建築を志す前に読む本/第2章No.17



NO.17  ――作家藤本義一先生との出会い――


藤本先生と出会ったのは私が23歳の時だった。大阪工業技術専門学校の建築学科で学んでいた2年生の頃、私は学生自治会の会長という立場で先生に講演をお願いした。身も知らぬ私の依頼を快く受け入れて頂いたにもかかわらず、飛行機以外の鉄道関係はみんな止まってしまうというゼネラルストライキに巻き込まれてしまった。当然、学校は休校になり講演は中止になる。あるいは自然消滅することになる。これに自分なりに責任を感じた。当事、藤本先生は直木賞を受賞された後でもあり、テレビやラジオ、新聞や雑誌等で活躍されていた超多忙なスケジュールをこなされていた。
 このストのニュースを新聞で知ったとき、すぐ先生の自宅に電話を入れ、ストで講演が中止になる旨を伝えようしたが、先生は東京赤坂見附のホテルに泊まっておられるということだった。今回中止になると次回どうなるかわからない。講演1週間前である。居ても立ってもおれず、ストの初日だったと思う、気づいたときには夜半クルマを駆って名神を東へ、東京向いて走っていた。
 翌朝、ホテルの駐車場から部屋に電話。無茶な私の行動に先生も驚かれていた様子だった。ストで中止になり、日程を代えて貰う事等電話1本で済む話だと思う。目的は藤本先生の講演会を学校で行い、学生たちに何らかの刺激を頂けたらと乗りかかった船。中止にするわけにはいかなかった。テレビの取材で徹夜明けの藤本先生、徹夜で名神・東名を飛ばして来た私。10分だけという出会いが2時間を超えてしまった。赤坂見附にあるホテルニューオータニのラウンジで待ち合わせ。小柄な先生だったが凄い迫力を感じた。初対面で人からこれだけの迫力を受けたのは初めてだった。初めて口にするカプチーノをご馳走になりながら、先生からのさまざまな人生の話に釘付けになった。これが作家藤本先生と私との出会いだった。

建築を志す前に読む本/第2章(No.16)



NO.16  最初の設計の依頼主は直木賞作家・藤本義一先生
――無我夢中だった初めての仕事、嬉しかった初めての設計料――

 設計料、この響きは建築を志すものにとってはとても感慨深い。自分の考えたものが土地の上に建ち、そしてクライアントから設計料を頂く。自分の思い、悩み、考えたこと、デザインの代償、ある意味では自分が評価される。自己評価でなく他己評価である。竣工した建物を前にして、クライアントがどう受け止めてくれたのか、設計中や工事中の悲喜交々な思いや出来事を思い起こしながら、案内していく。
 初めて設計料を頂いたのは、第71回直木賞作家藤本義一先生であった。設計は兵庫県芦屋市の奥池にできた、先生の仲間が集うことのできる山荘である。私が28歳のときに依頼され、30歳で完成した。言わば私の20歳代の総決算と30歳代への足がかりになった自分の記念碑となった作品である。延べ110㎡程度の小さな規模であったが、設計料の重みを30年経った今でもしっかりと覚えている。マスコミ関係者、漫才師や落語家たちなど色んな分野の方々が集った竣工パーティー。そんな様子を踏まえて、設計者である私のことをある雑誌に書いてくださった。少し長いが紹介したい。完成のお祝いメッセージとして『前略・・・・依頼者のこちらとしては、多くは言わなかった。ただ、楽しく集まる場所と指定しただけである。
そして、出来ることなら、木を主にしたものと言った。
彼の二十代最後の記念碑にふさわしい表情だった。この彼の表情は落成の乾杯のグラスをとおして見たとき、おれは、自分自身の二十代後半に、映画シナリオで一本立ちした時を思い出していた。やはり、やったという誇りのむずがゆさと、それを公開するときの照れとが同居していたものだ。
創作者は、いつも、この二つを抱いて生きていくものだと思う。この気持ちは、いくら金を積んだとしても味合うことが出来ないものだ。あれほどの充実した浄化作用はクリエーティブな世界に身をおいたものでなくてはわからない。おれも、今の職業に飛び込んだのは、あの気持ちを味合いたかったためだ。彼とおれの立場は、トレーシングペーパーと原稿用紙の違いはあるが、同質のものだと思う。
空間に自分のイメージを構築していく段には、なんの差もないと思うのだ。 これを出発点にして、彼は羽ばたいていくだろう。が、映画制作と同じ総合体だから、いくつもの困難があると思う。そういう時、彼は、この第1号作品の原点に舞い戻ってほしい。木肌と四季の関係、自然林を最高に活かすこと、そして、集合体が談笑できることを、彼は考えに考えたらしい。多くを語らない彼の様子からも、十分にうかがわれる。
出来上がった彼の“第1号作品”に、仲間たちが集まってきた。その時の彼の表情は誇り七分照れ三分であった。あらゆる点で妥協を排して。外部に向かっても、自らの内部に向かってもだ。
彼は、一人で、この山荘を訪れて来て、自らが青春後期の一時期に費やした創造空間の中に身を沈めて考えてほしい。そういう空間をもった彼が、おれは羨ましいかぎりだ。』これを読んだとき、嬉しくてどれだけ熱く込み上げてくるものを感じたことか。今でも、分の座右の銘文にして、何かの折の励みにしている。しんどかった約2年近く背負っていた肩の荷がすーっと解けていくようだった。このようにして、私の三十代が始まった。大きな励ましとともに・・・。初めての仕事とはこんなに重いものだ。
数年前、この山荘で専門学校の私の教え子約60名が集合し、先生の講演を伺う会を開催したことがある。自分が設計した山荘で私の教え子が、藤本先生の講演を聞く・・・。私としては感無量である。面白くてアッという間の1時間半だった。講演の後、藤本先生は約60名の学生一人ひとりと対話され、色紙にはそれぞれにひと言づつメッセージを書かれていた。
帰る時刻はすでに夜中1時を廻り、車で自宅まで送っていく途上、先生はひと言「君と出会ってもう何年になるかな?・・・出会って良かったな」とおっしゃって頂いた。嬉しさのあまり言葉が出なかった。出会ってもう36年。この間、私は無我夢中で生き、作品をつくり続けてきた。

建築を志す前に読む本(ウェブバージョン)/第1章(No.15)

NO.15 ――小さな人間の偉大な想像力――

 ライトの建築を見て廻るという今回の旅行で、日本の国土の広さの25倍というアメリカの大地の広さをいやという程思い知らされた。水平線まで真直ぐに伸びた果てしない道。約600キロ走っても信号に出くわさない広大さ。この広さの中で知った小さい自分、人間の小ささ。しかし、ライトの第1作目から遺作になったニューヨークのグッゲンハイム美術館まで、今回訪ねた95のライト作品には、それぞれに一篇のドラマを感じさせられた。この旅行でライトが何を考え、何を思い、何を願って建築を通し人生突っ走って行ったのか、ライトの生き様、人生の熱さや吐息までもを感じた今回のアメリカツアだった。 モノを創り出す事は無から有を生み出すこと。生み出されたものを見る人はどう感じてくれるのか。 短い日程でこれだけの作品を見て廻ると、作品のみならず人としてのライトの生き様が立体として浮かび上がってくる。サイモンとガーファンクルのアルバムに「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」がある。この二人、ハーバードで建築を専攻していたそうだ。

 2時間の落水荘の見学ツアーを見終えて、最後の作品を終えたという充実感。2時間も言葉が通じないプレイルームで待ってくれた子どもたち。迎えに行くと心細かったのか、泣きながら胸に飛び込んできた子供たちを抱き上げながら今回のライト見学ツアの予定を終えた。子供たちが無事であった安堵感を感じながら、生前のライト、どんな人だったのかなと思いを馳せてみた。 きっと人を喜ばせることの達人であり、優しさと懐の深さを兼ね備えた粋な人だったのだろうなと思った。

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